日本伝統文化スタイル - 伝統工芸品や日本文化のポータルサイト

三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)の誕生:千宗旦

 

茶道の流派はすべて千利休(せんのりきゅう:1522~1591年)という人物からはじまります。利休がお茶を完成させた人物であり、今の日本で行われているような侘び茶(質素なお茶)は利休が創始者であるといわれています。

 

ただ、利休は日本を統一した当時の豊臣秀吉に死罪を言い渡されます。こうして罪人となった利休の家は、後で3つに分かれるようになります。

 

現在の日本では、「表千家」「裏千家」「武者小路千家」という茶道に関する3つの主な流派があります。これは、どれも利休のひ孫から枝分かれしたものです。それでは、これらの家はどのようにして生まれたのでしょうか。

 

 千宗旦によるお茶
利休の孫にあたる人物として、千宗旦(せんのそうたん:1578~1658年)がいます。通常、有力な茶人というのはどこかの有力者に仕えます。これは、現在でいう就職に当たります。会社で働いて給料をもらうのと同じように、茶人として国を治める権力者のもとで働くのです。

 

ただ、宗旦の祖父(利休)が政治に関わり、権力に近すぎる存在であったために死罪を言い渡されたことから、宗旦はどの権力者にも仕えることはありませんでした。

 

そうなると、極貧生活を送るようになります。安定した給料が入ってこないため、これは当然の結果ともいえます。そのため、宗旦が行うお茶は質素倹約を徹底したものでした。

 

かつて行われていたような高級品を用いたり、豪華に飾ったりした茶道ではなく、利休が提唱した茶道は「無駄なものを排除した質素なお茶」です。このような茶道を「侘び茶」といい、宗旦が受け継いで広めていったのです。

 

侘び茶を利休が行ったのは晩年の3年弱とされているため、質素な茶道を完成させたのは宗旦であると考えられています。

 

 茶道に関わる3つの家の誕生
こうしてお金に困った経験から、宗旦は4人いた息子を全員就職させます。このうち、長男と次男は家を出ていってしまったため、三男が家を継ぐことになります。この三男は利休が残した不審庵(ふしんあん)という茶室を受け継ぎます。

 

残された四男は、宗旦と共に家の裏側にある隠居屋敷で暮らすようになりました。このときの茶室を今日庵(こんにちあん)といいます。ただ、四男も結局は茶人として生きていくことになりました。

 

そこで、同じ敷地内にある2つの家を区別するために、「表にある三男」「裏にある四男」と呼ばれるようになりました。これが、表千家や裏千家といわれる理由です。千利休や千宗旦の名字である「千」の字を取り、そこに家の位置を示す表や裏という文字を付けただけなのです。

 

なお、次男は家を出ていったことは既に述べましたが、このときは漆屋の家へ養子に入っていました。ただ、家業の漆屋が落ち着いた60歳くらいの頃、もう一度お茶の世界を志すようになります。つまり、第二の人生を歩み始めます。

 

このとき、宗旦の父親に当たる人物が所有していた茶室を受け継ぎます。この茶室を官休庵(かんきゅうあん)といいます。次男が受け継いだ茶室は、京都の武者小路という通りにありました。そこで、通りの名前を取って武者小路千家と呼ばれるようになったのです。

 

こうして、茶道で重要となる3つの家(三千家:表千家、裏千家、武者小路千家)が誕生しました。3つの家が生まれたのは血を争う戦いがあったのではなく、きちんとした理由があったのです。

 

家が3つに分かれた後、どの家も「千」という名前を継ぐ人を一人にするというルールを決めました。こうして、茶道の源流ともいえる家がむやみに増えることはなく、現在でも利休の時代から受け継ぐブランドを守っているのです。


 スポンサードリンク

サイトマップ
HOME