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武家のお茶と一般庶民のお茶:片桐石州、松平不昧、川上不白

 

お茶の世界で最も有名な人物としては、千利休(せんのりきゅう:1522~1591年)が知られています。現在のような質素な茶道(侘び茶)を確立した人物として、その名が知られています。

 

茶道の流派はすべて利休から枝分かれしているほど、その影響力は強いです。ただ、利休の死後はお茶の形が変わっていきます。

 

 石州流による武家のお茶
利休が生きていた時代は戦国時代とも呼ばれ、日本各地で戦いが繰り広げられていました。ただ、これら戦乱の世が収束していくと平穏な世の中へと変わっていきます。そして、利休がこの世を去った後に何百年も続く江戸時代(1603~1868年)がおとずれます。

 

ただ、利休が目指したお茶は地味であったため、茶室に光を取り入れて道具も華やかにした茶道の流派が誕生するようになります。このような流派の一つに石州流があります。

 

当時は、武士や役人が茶道をするのは珍しくありませんでした。そのため、武人や役人としてではなく、茶人としての功績の方が大きい権力者もいます。その中の一人が、石州流の元になった片桐石州(かたぎりせきしゅう:1605~1673年)です。

 

石州は江戸幕府を開いた徳川家に仕え、当時の4代目将軍の茶道師範を行っていました。つまり、当時の日本を統治していた最も権力のある人に対して茶道を教えていたのです。そのため、江戸時代で最も一般的な茶道の流派は石州流でした。石州流は武士の間で主に行われていた茶道です。

 

日本各地で武士たちは石州流を行うようになりました。そうしているうちに、江戸時代の後期にも武士の中から優れた茶人がうまれるようになります。

 

例えば、出雲松江(現在の島根県)を治めていた城主に松平不昧(まつだいらふまい:1751~1818年)がいます。彼は石州流の茶道を学び、茶道の考えを活かして良い政治をした人物として知られています。そのため、彼が治めた地域は今でもお茶や和菓子が有名です。

 

また、不昧は多くの茶道具を集めて収集し、それらをランク付けして発表するなど、お茶の研究に熱心であったことでも知られています。

 

 千家による一般大衆のお茶
武士を中心としたお茶に対して、この時代は一般庶民を対象にしたお茶も広がりました。つまり、稽古のために茶道を習うのが一般化していった時期でもあります。

 

利休を源流とする茶道の家元としては、千家が知られています。現在の表千家、裏千家、武者小路千家が千家であり、この3つを合わせて三千家といいます。

 

これら千家は茶道が本職であり、江戸時代ではこれらの家元は茶道を教えることで生計を立てていました。武家を中心とする石州流とは反対に、一般庶民の間で広めていったのです。その中でも、表千家の茶道を学んだ川上不白(かわかみふはく:1716~1807年)という人物が有名です。

 

不白は京都でお茶を習った後、江戸(東京都)に帰って武家や町人たちに対して広く茶道を教えるようになります。このとき、江戸での町人文化を受けて京都とは違った茶道が発展していきます。こうして、不白のお茶は江戸の一般庶民の間で広がっていきました。

 

このように、お茶の価値観や流派は時代の流れと共に変わっていきました。茶道といえば、利休が完成させた「質素倹約なお茶」というイメージが強いです。ただ、実際は多くの人のもとで独自の発展を遂げているのです。


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