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茶道での流派の違いから、自分だけのお茶を見直す

 

茶道での流派の違いから、自分だけのお茶を見直す

茶道を完成させた人物として、千利休(せんのりきゅう:1522~1591年)が知られています。利休から、茶道に関わるすべての流派が生まれていきます。

 

これら茶道の流派の中でも、利休の考えを色濃く受け継ぐ有名な流派として表千家、裏千家、武者小路千家が知られています。この3つ合わせてを三千家(さんせんけ)といいます。

 

それでは、なぜこのような流派が生まれ、違いを生じるようになったのでしょうか。ただ、これは当然の流れであるともいえます。

 

 流派によって異なる茶道の捉え方
人が違えば解釈が異なります。そのため、源流がまったく同じであったとしても、行っていることや方向性が違うことは多々あります。

 

例えば、キリスト教にはカトリックがあればプロテスタントもあります。どちらも同じキリスト教であり、同じことを信じています。しかし、この考え方は異なっており、互いに反発しあうこともあります。

 

イスラム教も同様です。イスラム教には、スンニー派があればシーア派もあります。仏教も同じように多くの流派があります。人によって解釈が異なり、それぞれ枝分かれしていったのです。

 

つまり、解釈が異なることで分岐していくのは、歴史を振り返れば当然のように起こるべきことなのです。茶道であっても、流派によって作法が異なれば解釈が違います。ただ、宗教などと異なるのは、茶道では互いを敵対視しているわけではないことが挙げられます。

 

実際、茶道では流派が異なる会に出席することはよくあります。しかも、作法に多少の違いはあるものの、お茶を行う上で大きく困ることはありません。

 

これは、それぞれの流派がすべて「利休のお茶を源流にしている」ことがあります。特に、千家同士(表千家、裏千家、武者小路千家)は相互性が良いです。

 

 自分のお茶を行う
重要なのは、自分が思うとおりにお茶をすることです。過去の人たちが自らの境地を切り開いていったのと同じように、自身の考えを入れなければいけません。

 

ただ、何の基礎もなしにデタラメのお茶を行うのではありません。違う流派の会に出てもお茶で困らないのと同じように、基本的な部分はきちんとおさえておく必要があります。そのため、自分の気持ちだけを全面に押し出してはいけません。勝手に新たなスタイルを実践すれば良いのではないのです。

 

これを踏まえたうえで、「自分のお茶」を実践していくのです。流派に捉われず、基本を理解した上で新たな挑戦をしていくことが重要です。

 

人間というのは、既にあるものを守ることに徹しようとします。茶道では特に顕著であり、先生の言うとおりに従って新たなことに挑戦しようとはしません。そこで考えを改め、自分のお茶をするように考える必要があります。

 

歴史をみれば、高価な道具を使うことに偏っていた茶道に対して、利休は質素倹約な茶道へと形を変えています。また、現在ではイスに座りながら茶道を行う方式が考え出されています。つまり、茶道でも新たな概念が生み出されているのです。

 

こうした新たな挑戦が受け入れられることで、周囲から名声を得ることができるのです。ただ、「名声を獲得することにより、甘えを生じること」を茶道では禁止していることは理解しなければいけません。

 

例えば、世の中を変えたい新人官僚は実力や肩書がありません。今の状態では何もできないことに気がつき、耐えしのいで官僚として登りつめるために努力します。しかし、上にいくにつれて目的が変わり、権力をもつことだけに執着するようになることはよくあります。

 

これを茶道では戒めていますが、前述の通り自分なりの取り組みも必要です。伝統という言葉から、古いものを守ることは重要です。それと同時に、時代の流れに合わせた新たな考え方も必要なのです。このバランスにより、伝統文化が発展していきます。


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