日本伝統文化スタイル - 伝統工芸品や日本文化のポータルサイト

新しい茶道の普及と発展:古田織部、小堀遠州

 

かつて、日本の権力者の多くは茶道を行っていました。そのため、茶道は伝統文化の一つであるものの、大きな影響力をもっていました。

 

現在のような茶道の形を完成させた人物として千利休(せんのりきゅう:1522~1591年)が知られており、茶道の流派はすべて彼から派生しています。

 

それだけ茶道に強い影響力をもっていたことから、利休は大きな権力をもつことになります。ただ、それが災いとなってしまい、当時天下統一を果たした豊臣秀吉によって死罪を命じられてしまいます。その後、利休の志を引き継いだ茶人たちが茶道の普及と発展を行うようになります。

 

 古田織部の茶道
利休の弟子には、特に優れた7人がいたとされています。その中の一人に古田織部(ふるたおりべ:1543~1615年)がいました。織部は武将であり、一国の主でもあります。

 

前述の通り、当時は権力者の多くが茶道を行っていました。織部も同様に茶道を学んでおり、茶人としても優れた才能を発揮した人物で知られています。

 

利休に死罪が言い渡されたとき、死ぬ前に船で淀川を護送されているところを古田織部は少し離れた場所で見送ったともいわれています。

 

そのときの利休は日本で最も権力のある人の怒りに触れた罪人であるため、見送っている姿を見られたら、織部も同じように罪に問われる可能性があります。命がけの見送りですが、お世話になった茶道の師匠に対してそれだけ勇気のある行動をしたのが織部です。

 

これに感動した利休は、遺作として「ゆがみ」「泪(なみだ)」という2本の茶杓(ちゃしゃく:抹茶をすくい、器に入れるための道具)を自ら削って作成しました。このうち、「泪」を古田織部に贈ったといいます。

 

茶道では、先生の教えを守ってまったく同じようにする人がほとんどです。決まった型から抜け出すことは、ほとんど行われません。

 

ただ、利休から「人とは違う茶道をしろ」と教えられた織部は、その通りにオリジナルの茶道を発展させます。もちろん、デタラメなお茶ではなく、茶道の基本をおさえた上で自ら新たな茶道を切り開くのです。

 

利休に死罪を命じた豊臣秀吉は、織部に茶道の改革を託します。利休の目指した茶道は質素倹約であり、使われる道具も簡素なものでした。また、武士であっても茶室に入るときは刀を外すというルールがあります。

 

そこで、秀吉は暗い印象を受ける茶室をもっと明るくし、使われる道具もデザイン性のあるものにするよう織部へ注文をつけたと考えられます。さらに、刀を腰に付けた状態でお茶ができるようにさせました。

 

そうして、利休とは異なる茶道の形が出来上がっていきます。織部は茶室に光を取り入れ、大胆なデザインの道具を用い、刀を付けたままお茶をするように発展させます。

 

茶道の流派には、利休が源流となる三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)だけでなく、他にも流派があります。これらの流派の中でも、織部流や遠州流、石州流などは古田織部が元になっています。

 

 小堀遠州の茶道
既存の茶道ではなく、新しい茶道を切り開いた古田織部の弟子に小堀遠州(こぼりえんしゅう:1579~1647年)がいます。織部の後を引き継ぎ、遠州もそれまでの茶道にはない華やかさを取り入れます。

 

そのころは江戸時代(1603~1868年)という新たな政権が始まったこともあり、新時代に合った茶道を開拓しようとしたのです。お茶で使われる道具をみると、利休が用いていたような不均一な道具ではなく、形の整った美しい道具が使われています。

 

それまでの質素倹約を重んじた茶道である「侘び茶」に対して、小堀遠州が行った茶道は「きれいさび」といわれます。つまり、「美しい侘び茶」ということになります。利休が完成させた「無駄を排除した質素な美」を基盤にしつつ、そこに新たな風を吹き込んだといえます。

 

こうしたお茶は明るくて美しく、そして分かりやすいように変化していきました。そのため、古田織部や小堀遠州が発展させた茶道は、権力者の間で広く行われるようになります。このようにして、江戸時代では新たな茶道が確立していきます。


 スポンサードリンク

サイトマップ
HOME