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茶道の衰退と教養科目での女性による茶道の発展

 

茶道の衰退と教養科目での女性による茶道の発展

日本では、江戸時代(1603~1868年)に外国との貿易を行わないという「鎖国制度」を採用していました。そのため、日本の文化は独自の発展を遂げるようになります。

 

ただ、江戸時代が終わって明治時代(1868~1912年)になると、海外との貿易が活発になります。このときの日本は欧米の文化が急速に取り入れられるようになりました。

 

そして、この時代にそれまで大きな影響力をもっていた「武士」という存在がなくなってしまいます。刀をもって歩いている人はいなくなり、特定の支配者だけが国を治めるという状況が解体されたのです。

 

それと共に、茶道などの伝統文化も衰退していきます。茶道は武士社会で行われており、武家によって保護されていたからです。その後ろ盾がなくなったため、茶道は新たな道を模索するようになります。

 

 企業経営者による茶道
江戸時代までの日本は、それぞれの土地を武家である領主たちが治めていました。そこで、茶人たちは各領主たちに仕え、茶会を開いたり茶道の指導を行ったりします。つまり、現代社会と同じように特定の組織に就職して働いていたのです。

 

ただ、明治時代になって武家社会が解体されると、茶人たちは就職先がなくなります。また、西洋化の流れによって、茶道などそれまでの文化は「古いもの」と考えられるようになりました。そのため、この時代は茶道に関わる多くの流派が金銭的に困窮したといいます。

 

そのような中、ビジネスによって大きな財をなした企業家たちがスポンサーとなって支援するようになります。例えば、「茶道を完成させた創始者の流派」である表千家は、莫大な財を成した「三井家」という大きなスポンサーを得ました。

 

※「表千家」とその分家である「裏千家」「武者小路千家」を含めて、三千家といわれます。この3流派は、茶道の中で最も源流に近い流派として知られています。

 

また、武者小路千家も同じように企業家から支援を受けていました。その中でも、企業からほとんど支援を受けていなかった裏千家は、他の流派とは異なる方向性を歩むようになります。

 

 教養で行われた女性の茶道
茶道というのは、もともと上流階級にいる男性が行うものでした。その歴史をみても、武士がいた時代では有名な女性の茶人は存在しません。これは、茶道が男性だけのものだったからです。

 

ただ、現在の日本で茶道といえば主に女性が行うものであるという風潮があります。このような流れを作ったのが裏千家です。

 

茶道が一般庶民の間に広がっていったのは、江戸時代の後半であるといわれています。そして、江戸時代が終わって明治時代に入ると、前述の通り茶道の多くの流派は困窮します。そのような中、茶道が女性教育のための教養科目として採用されるようになります。

 

茶道では作法を学ぶ中で「相手を思いやる気持ち」や「控えめに振る舞い、陰から支えるための心構え」を理解できるようになります。そのため、教養のための茶道は最適だったのです。

 

そこで、裏千家は茶道を学校教育へ取り入れるための普及活動を精力的に行うようになりました。そのため、現在の日本では小学校などのクラブ活動で教えられる茶道のほとんどが裏千家です。

 

また、このような普及活動を行ったことから、女性の茶道人口が急激に増えるようになりました。それに伴い、裏千家の茶道を行う人の数も増えていくようになります。その結果、今では茶道の中で裏千家を行う人が約半分を占めるまでになっています。

 

茶道で女性の着物姿を見るようになったのは、実は明治時代以降になってからです。そして、裏千家が茶道で主流になったのも先に挙げた歴史があるからです。

 

こうして少しずつ歴史を理解していくと、伝統文化として知られる茶道は大きくその様子を変えていることが分かります。そして現在でも、茶道は少しずつ変化しながら日本の文化として発展しています。


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