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侘び茶による茶道の大成:武野紹鷗、千利休

 

中世の室町時代(1336~1573年)では、高価な中国製の茶道具を用いた豪華な茶道が主流でした。ただ、室町時代が終わりに近づいて新たな世の中が始まろうとするときになると、茶道の考え方が変わってくるようになります。

 

それまで道具に偏っていたお茶が、「茶道を行うときの考え方」や「人とコミュニケーションを取るには」などを問うようになってきたのです。

 

それに伴い、茶道と仏教との繋がりが深くなって、豪華さよりも質素倹約を重んじるようになりました。必要な部分だけを残して無駄を排除し、不完全なものの中に美しさを見出すという、茶道特有の「侘び寂び」という考えが生まれたのです。このようなお茶を「侘び茶」といいます。

 

 侘び茶による茶道
きらびやかなお茶が主流だった室町時代が終わると、次に安土・桃山時代(1573~1603年)がおとずれます。日本ではこの時代を戦国時代と呼び、日本各地で戦いが繰り広げられていました。

 

そして、この時代に茶道が大成したといわれています。茶道が一つの文化として完成されたのは、武野紹鷗(たけのじょうおう:1502~1555年)とその弟子である千利休(せんのりきゅう:1522~1591年)による功績が大きいです。

 

特に、利休は日本史を勉強するときに必ず習うため、日本人であれば誰でも知っている歴史上の人物です。すべての茶道の流派は利休から枝分かれしているほど、お茶の世界において利休の存在は偉大なのです。そこで、まずは利休の師匠である紹鷗から理解していきます。

 

紹鷗の出身地は、大阪の堺という町です。この時代は戦乱によって乱れてはいたものの、堺は貿易が盛んな商人の町として栄えており、非常に安定した平和な町でした。自治が認められていた町であり、いわゆる軽い独立国でもあります。

 

堺で育った紹鷗は、もともと皮革で商売していた商人でした。そして、商人でもあり茶人でもある紹鷗は、和歌にも精通していました。

 

日本の文化というのは、その発祥が中国に由来するものが多いです。実際、お茶は中国から伝えられたものです。ただ、和歌は日本古来の文化です。そこで、お茶の世界に和歌の要素を加えたことで、ようやく茶道が日本固有の文化へと昇格していったと考えられています。

 

茶道特有の「侘び寂び」というのは、もともと和歌にあった言葉です。そのため、不完全の中に本当の美しさがあると考える「侘び寂び」という概念は、紹鷗が完成させたのではと考えられています。

 

 千利休による茶道の完成
紹鷗が39歳のとき、一人の弟子をとります。これが、後の千利休です。豪勢なお茶ではなく、無駄をできるだけ排除した「侘び茶」を確立させ、茶道を確固たるものにした人物として利休が知られています。

 

紹鷗と同様に、利休も堺の町を出身とする商人です。若い時から茶道を行っていた利休ですが、独自のお茶を目指すようになったのは60歳になってからです。つまり、それまでは先人たちと同じような茶道を行っていました。

 

利休が死没するのは70歳であるため、わずか10年で「不完全な美」を基本とする侘び茶を完成させたのです。

 

利休が60歳を迎えた後、日本を統一させた豊臣秀吉に仕えます。このときの利休は茶人として大きな名声を得ていたことから、商人であるにも関わらず、大きな権力をもつようになります。この時代、すべての権力を握っている秀吉に対して意見を言えたのは、利休だけだともいわれています。

 

これは、当時はあらゆる権力者が茶道を習っており、その頂点に利休がいたことに由来します。そこで、茶道で大きな影響力があるだけでなく、利休は政治にも関わるようになるのです。

 

ただ、秀吉の逆鱗に触れてしまい、利休は死罪を命じられてしまいます。どのように秀吉を怒らせ、なぜ死罪になったのかは現在でも分かっていません。

 

このような人生を歩んだ利休のお茶は、高価な道具を好む既存の茶道を否定したという点に大きな意味があります。道具も中国製の均一な形ではなく、利休より後の茶道ではデコボコのある形の崩れた茶道具を好んで使うようになります。

 

そして、茶道が当時の日本で重要な位置を占めていたからこそ、利休が完成させた「不完全な美」「質素倹約」などの考えが今でも日本人に根付いているのです。


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