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茶道の始まり:栄西、能阿弥、珠光

 

お茶はもともと、中国にあったものです。これが日本に初めて伝えられたのは、栄西(えいさい:1141~1215年)によるものと考えられています。

 

栄西は僧として中国で仏教の修業を行い、日本へ帰るときにお茶をもってきたといわれています。現在のような嗜好品ではなく、お茶は薬として用いられてきました。ただ、お茶が広く栽培されるようになると、一般的に飲まれるようになったというわけです。

 

なお、栄西は禅を日本に伝えた人物としても知られています。姿勢を正して座り、呼吸を整えることで自身を見つめなおす座禅は、栄西とも深い関わりがあるのです。

 

 華やかなお茶のはじまり
当時、日本にとって中国は先進的な文化をもった大国でした。さらに、お茶が中国から渡ってきたことから分かる通り、この頃のお茶は中国の影響を大きく受けています。

 

中世の室町時代(1336~1573年)では、闘茶(とうちゃ)と呼ばれるものが流行ります。闘茶とは、お茶の銘柄を当てる賭博のことです。闘茶はもともと中国で行われており、本場のお茶かそうでないかを当てるというものでした。

 

「本場のお茶」というのは、京都郊外にある栂尾(とがのお)と呼ばれる場所で生産されたお茶のことです。これを当てるゲームを行い、そこには景品が出されました。砂金や刀剣など、豪華な賞品が賭けられていたため、上流階級の人たちが熱中していたといいます。

 

この時代の茶道はオシャレな存在であり、道具も中国から渡ってきた高価なものを使用していました。形が均一の中国製の磁器を用い、完成度の高い器が茶道では好まれました。お茶を楽しむというよりも、道具に偏ったお披露目会であったともいえます。

 

この時代では中国製の茶道具に莫大なお金をつぎ込み、多くの人を集めた茶会が盛大に行われるようになります。つまり、当時の茶道に今のような質素倹約という考え方はなく、いかに高級品を集め、盛大な茶会を披露するかが重要だったのです。

 

 能阿弥と珠光のお茶
このような初期の茶道に大きく貢献した人物として、能阿弥(のうあみ:1397~1471年)と珠光(じゅこう:1423~1502年)が知られています。能阿弥は水墨画(墨によって描かれた絵画)で知られていますが、美術品の鑑定や茶人としても知られています。

 

それまでの貴族の家というのは、「応接室」「居間」というように大きなワンルームを設け、そこを廊下で繋ぐという方式が採用されていました。これを、専門用語で寝殿造(しんでんづくり)といいます。このような造りでは、茶道で用いられる畳の床は一般的ではありません。

 

そこで、一つの部屋に区切りを設けることで、小部屋をいくつか用意することを考えました。間を仕切る扉を外せば、大部屋としても活用できて便利です。このような造りを書院造(しょいんづくり)といいます。

 

   

 

書院造は能阿弥によって確立されました。そこから、畳を敷き詰めた部屋がメインになっていきます。つまり、日本住宅の基礎はこの時期に出来上がったといえます。

 

なお、能阿弥が華やかなお茶を行っていたのに対して、同じ時代に珠光という人物が活躍します。珠光は仏教の修業を行う中で、「茶道の修業は仏教に繋がる」と考えるようになりました。

 

仏教では、質素倹約を重んじます。これと同じ考えを茶道にも取り入れようとしたのです。当時の茶道は金によって集めた高級道具を使い、それらによって部屋を飾って豪勢に見せるというものが流行っていました。これの真逆ともいえる概念を提唱したのです。

 

つまり、現在のように「無駄を排除し、質素な姿に芸術性を求める茶道」というのは、珠光が始まりであるとされています。このようなお茶を「侘び茶」といいます。珠光によって、現在のようなお茶の姿が考え出されたのです。


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