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政府による酒税制度と協会酵母の登場

 

日本酒が初めて海外に輸出されたのは、明治時代(1868~1912年)に入った1872年であるとされています。オーストリア万国博覧会に日本酒が出展されたことから、これが初の輸出だといわれているのです。

 

ただ、それ以前の江戸時代(1603~1868)の初期には既に東南アジアへ向けて輸出されています。さらに、江戸時代ではオランダ経由でヨーロッパへ日本酒が輸出されていたという形跡があります。ただ、国のお墨付きをもらって輸出されたのは1872年であるといえます。

 

 明治政府による酒の推奨と税制
酒に税金をかけて財源にするという考えは、はるか昔から行われています。明治時代になるとこの傾向がさらに強くなり、酒税を重くすることで多くのお金を徴収することに乗り出します。

 

そのためには、多くの酒が造られて飲まれなければいけません。そこで、政府は江戸時代から続く複雑な酒税制度を廃止しました。その代わり、日本酒造りを行える技術があり、かつ商売を始められるだけの資本力のある人であるなら誰でも酒業を行えるようにしました。

 

これは、1875年のことです。この法令が出された一年間の間に、3万を超える酒蔵が誕生したといいます。

 

ただ、酒税の徴収が政府の目的であったため、酒造りに伴う課税は年を追うごとに重くなります。これに耐えられなくなった酒蔵は多く、明治時代が終わるころには8000軒程度にまで減りました。

 

なお、日本国内で日本酒の需要が高く、海外にもあまり輸出されていなかったことから、酒税は当時の明治政府にとって重要な財源でした。酒税は国家歳入の約3割を占めるほどであり、政府の財源を左右する重要な位置づけだったのです。

 

 どぶろくの禁止
酒税が政府にとって大切な財源であったことから、税金を増やすように働きかけるのは当然の流れであるといえます。その中の一つに「どぶろくの自家製造と消費の禁止」があります。どぶろくは濁り酒とも呼ばれ、日本酒の原型でもあります。

 

日本酒を造るとき、蒸し米、麹(こうじ)、水、そして酵母が必要です。これらを混ぜて発酵させると、醪(もろみ:発酵している酒の元)ができます。醪を搾ると、日本酒が出てきます。

 

一方、どぶろくでは「絞る」ことをあまり行いません。醪を粗く濾すことでどぶろくが造られます。醪のろ過が不十分であるため、その中には米のデンプンや発酵によって生まれた糖など、どぶろくにはあらゆる固形物が浮遊しています。そのために、白く濁った酒になります。

 

当時、一般家庭でどぶろくが造られていました。稲を刈り取った後の米を使い、自家製造して飲んでいたのです。

 

ただ、どぶろくを自家製造されていては、政府にとって税収が見込めません。そこで、前述のようにどぶろくの自家製造を禁止したのです。酒税を取れる日本酒に目を向けさせて、税収の増加を図ったことが分かります。

 

 協会酵母の流通と瓶詰め
政府は酒に税を課すだけでなく、その発展に協力するようになります。税金の約3割を占めるため、酒の品質を向上させたり安定供給の設備を整えたりするのは国として重要だったのです。

 

そこで、まず国立醸造試験所が設立されました。設立と共に日本酒の鑑評会が開かれます。このとき、「鑑評会で良い成績をおさめた酒には、良い酵母が使われている」という考えのもと、上位となった酒蔵から採取された酵母を純粋培養する試みがされました。

 

こうして完成された酵母が協会酵母です。現在、酒造りで多くの酒蔵が使用している協会酵母は、政府の国家戦略によって生まれたのです。協会酵母が全国の酒蔵に配られるようになり、品質の高い酒の製造を行いやすくなりました。

 

また、明治時代には日本酒を瓶詰めして売るようになります。これにより、日本酒を遠距離地域に輸送して販売することが可能になりました。

 

日本酒の大量産地は別にして、それまで日本酒はその地域だけで飲まれていました。つまり、酒蔵によって生み出された日本酒が県外に出ることはなかったのです。

 

ただ、前述の通り、明治時代になると酒が瓶詰めされるようになり、生産された村や町を出て外でも売られるようになります。こうして、さらに酒の流通が活発になっていったのです。


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