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朝廷による酒造りの介入と庶民への日本酒の普及

 

奈良時代(710~794年)の初期に麹(こうじ)が中国から伝わってきたとされています。酒造りでの麹は、米に含まれるデンプンを糖に変えるという重要な役割をします。

 

麹による技術が入ってきたことで、酒造りを行うための醸造法は飛躍的に発展するようになります。米麹を用いた手法が行われることで、ようやく日本酒造りが本格化していったのです。

 

 政府に日本酒造りの役所ができる
麹が伝わったころには、古代統一国家による法令などができあがります。その中で、酒と政治が関係し合うようになります。

 

実際、平安時代(794~1185年)の中期には、当時の朝廷の制度を記した延喜式(えんぎしき)という書物の中で、造酒司(さけのつかさ)という酒に関わる役所が記されています。この役所によって、朝廷のために酒を醸造するための体制が整えられていきました。

 

特に、日本酒の醸造には酒部(さかべ)と呼ばれる専門の人が行っていたとされています。さらに、延喜式には現在のように米・水・麹を使って日本酒を仕込むことが書かれています。

 

それだけでなく、臼で米をつくことで外側を削り、その後に米を蒸して米麹を造っていたことから、酒造りの原型がこの時代に既にあったことが分かります。このように、朝廷が加わることで酒造技術が一段と進んでいったと考えられます。

 

そこから、製造方法の違う酒が考え出されるようになりました。中でも、僧侶たちが寺院で造ったお酒は高い評価を得ます。このお酒を僧坊酒(そうぼうしゅ)といいます。僧坊酒は朝廷による酒蔵部門とは別に造られていました。

 

僧坊酒が盛んになるにつれて、お酒は神に捧げたり朝廷に献上したりするためのものだけでなく、庶民の酒へと変わっていきました。

 

 禁酒令による制限
アルコールの摂取を取り締まるための法律を禁酒令といいます。かつて、日本でも禁酒令が施行されたことがあります。

 

平安時代から酒造りの文化が発展すると、鎌倉時代(1185~1333年)には庶民の手にも多くの酒が渡るようになりました。当時、主食である米は重要な財産でしたが、これと同じくらい価値を有する商品として酒があったのです。

 

この頃には京都などで酒屋が出てくるようになります。ただ、それでも現在のような大量生産は難しいものでした。

 

その中でも、人を酔わせる酒は武士や商人の間で出回るようになります。しかし、当然のように酒によって身を滅ぼす人がいれば、泥酔して事件を起こす人が現れるようになります。

 

こうした事態を受け、1252年に「沽酒の禁(こしゅのきん)」が出されました。これにより、酒の売買や製造などが制限されるようになります。このときは一軒につき醸造・保管用の甕(かめ)は一個だけに制限したといいます。他の甕はすべて破壊されました。

 

鎌倉市だけでも、3万7000を超える甕が壊されたと考えられています。こうした沽酒の禁によって、酒は商業的に大きなダメージを受けました。

 

現在でも、酒による飲酒運転や酔った勢いによる事件は問題となります。これは、どの時代でも同じであったといえます。

 

ちなみに、その後に朝廷は税の不足を補うために酒屋を認め、その代わりとして税金の徴収を行うようになりました。そのため、結局のところ禁酒令による酒の取り締まりがずっと徹底されることはありませんでした。


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