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「綺麗さび」の発展と共に衰退した備前焼の歴史

 

「綺麗さび」の発展と共に衰退した備前焼の歴史

備前焼は鎌倉時代(1185~1333年)に日用品としてスタートしました。権力のある人が芸術品として扱うのではなく、あくまでも一般庶民の雑貨として用いられます。

 

ただ、室町時代(1336~1573年)から安土・桃山時代(1573~1603年)にかけて、お茶の文化が発展してきました。

 

それと同時に、「わびさび」を重んじる日本独特の文化と合わさり、お茶の席で備前焼が重宝されるようになりました。この時代では、備前焼はあらゆる焼き物の中で最も活躍したといえます。

 

しかし、次の時代に移ると、備前焼は衰退を始めます。備前焼がどのような歴史の中で動いたのかについて、学んでいきます。

 

 綺麗さびの登場
お茶の中でも、安土・桃山時代ではわび茶が主に行われていました。この時代に活躍し、日本史の歴史で必ず習う「千利休」によって大成されたのがわび茶です。豪華なお茶ではなく、質素で簡素な中にこそ本当の美しさがあると考えられていました。

 

そのため、土色で作られ、主役を活かす備前焼はわび茶の世界にマッチしており、とても重宝されました。無駄なものをできる限り省き、その人による独自の感性で世界を作り上げていくのです。

 

ここから時代は移り、江戸時代(1603~1868年)になります。このとき、茶の湯の世界で大きな力を引き継いだ人物として小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579~1647年)がいます。

 

彼が築いたお茶の世界は、誰でも受け入れることができるように客観性をもたせたことが特徴です。それまでのように、お茶の世界を極めた人でしか理解できなかったような世界ではなく、誰が見ても美しく表現しようとしました。これを、「綺麗さび」といいます。

 

綺麗さびでは、白をメインとした綺麗な茶器を使い、光を取り入れた茶室でお客様をもてなします。このように考えると、土色で荒々しい備前焼は綺麗さびの世界とは明らかに合わないことが分かります。

 

こうして、時代の変化と共に備前焼は衰退していきます。お茶への美意識が変わることにより、扱われる茶陶(ちゃとう:お茶を入れるための容器)は見た目も美しい陶磁器へと変わっていきました。有田焼や瀬戸焼といった、色鮮やかな陶芸品にシェアを奪われていったのです。

 

 備前焼の危機によって生まれた新たな変化

備前焼の狛犬

備前焼が衰退していく中で、日用雑貨や茶器だけではなく、置物などを手掛けるようになりました。つまり、花瓶や皿などだけでなく、彫刻的な意味合いをもつ置物の作成を行ったということです。このようなものを細工物といいます。

 

これは、時代の変化に合わせるために行われました。

 

備前焼の産地である岡山藩も、備前焼を藩の重要文化財に指定します。ただそれでも、備前焼特有の土色が時代の古臭さを感じさせるのか、質と量ともに低下していきます。

 

この時代には、白備前と呼ばれるものが登場します。土色の備前焼ではなく、磁器を思わせるような白色の備前焼が作られたのです。

 

また、備前焼に絵を付けた彩色備前(さいしきびぜん)という作品まで登場します。それまで土と焼き上がりの色だけで発展してきた備前焼にとって、この時代の備前焼はかなり特異であるといえます。このような備前焼が出てきたことから、当時の危機感を伺えます。

 

備前焼の不振に伴い、備前焼を焼き上げる窯も小さくなっていきます。それまでの大窯と比べて、このときに築かれた窯はかなり小さいものでした。

 

ただ、窯を小さくした分だけ小回りもききます。大窯であると、備前焼を焼くために30~40日の期間が必要でした。それに比べて、小ぶりの窯にしたおかげで6~7日で焼き上げれるようになりました。

 

必要な分だけを作成できるため、経費の削減を行えます。また、製品の回転率を上昇させることもできます。このようなことから、備前焼に関する労力を抑えれるようになったのです。

 

このように衰退したとはいっても、過去に名声を築いた備前焼の地位が完全になくなったわけではありません。この時代でも、各地の大名が岡山県備前市伊部に立ち寄ったときは、備前焼を買い求めていたことが知られています。


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ギャラリーしょうざん
備前焼の産地である岡山県伊部で、備前最大のギャラリー。また窯元としての誇りと伝統で、備前焼の展示・販売を行う。

備前焼:ギャラリーしょうざん


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