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金重陶陽(かねしげとうよう):備前焼の人間国宝

 

金重陶陽(1896年~1967年)は岡山県出身の日本の陶芸家であり、備前焼の分野で初の人間国宝(重要無形文化財保持者)として認定された人物です。

 

当時の備前焼は現在のように活気があるものではなく、人気は地に落ちていました。この備前焼の人気を復活させることに成功させた人物の一人です。また、その弟子の中からも同じように人間国宝が何人も輩出されるなど、備前焼において彼の残した功績は絶大なものがあります。

 

 金重陶陽という人物
備前焼には、窯元六姓と呼ばれる6つの「備前焼の名門」があります。その中の1つが金重家です。細工物(置物など、細工をほどこした器物)を得意とする父の楳陽(ばいよう)に師事し、陶陽は備前焼を作成し始めました。

 

当時は備前焼が苦難を極めた時代であり、陶器の売れない時期が続きます。その中でも、花や鳥、動物、人物などの置物を陶陽は主に作っていました。そのため、20代前半にして備前焼の細工物作家の代表とまでいわれるようになりました。

 

そこから、今度は安土・桃山時代(1573~1603年)に作られた備前焼へと興味が移っていきます。

 

備前焼が最も栄えたのは、安土・桃山時代です。このころはお茶の文化と共に備前焼の芸術性が評価され、あらゆる場面で備前焼が活躍しました。桃山備前という言葉があり、この時代の備前焼は高い評価を得ています。

 

しかし、これが江戸時代(1603~1868年)になるとその人気は衰えていきます。当時の備前焼による主要生産物が土管だったことからも、備前焼の衰退具合を推測できます。

 

江戸時代が終わって貿易が盛んになると、今度は欧州文化が流れ込んできます。それに伴い、日本の伝統文化はどれも厳しい状況に置かれるようになります。ただ、第一次世界大戦が終わったころ、日本の伝統文化を再評価しようとする動きが活発になります。

 

このような時代背景もあり、金重陶陽はかつて栄光を極めた安土・桃山時代の備前焼を再現するために研究を行います。このことは、「桃山に帰れ」という言葉から桃山回帰と呼ばれます。

 

「備前焼の本当の美しさは安土・桃山時代の備前焼にある」という認識から、このような決心を行ったのです。

 

桃山風の備前焼では、茶陶(ちゃとう:お茶を入れるための容器)が中心です。茶陶は桃山備前の華であるともいえます。これを再現するため、陶陽は自ら茶道を学ぶことで茶道具への理解を深めました。

 

また、実物の桃山備前を見ることも重要です。そこで、陶陽は文化人を回ることで桃山時代に作られた備前焼を見せてもらい、研究会を発足するに至りました。そこから、桃山備前を再現するために土の作り方やロクロ、窯焚きなどの研究を進めます。

 

こうして、第二次世界大戦より前に桃山風の備前焼の作成に成功したといいます。

 

その他、窯詰めにも工夫を行います。備前焼特有の模様を窯変(かまへん)といいます。現在ではこれを人工的に狙って作れますが、当時はそのような技術はなく、偶然に頼るしかありませんでした。

 

そこで、偶然ではなく科学的に窯変を作るための研究を行います。例えば、皿などの重ね焼きをすることで、作品に鮮やかな赤色の線を出す緋襷(ひだすき)を作ることに成功しています。これらの功績から、いま活躍している全ての備前焼作家は金重陶陽の恩恵を受けているといえます。

 

そして1956年、備前焼初の人間国宝に金重陶陽が選ばれます。その後は海外で個展を開いたり、ハワイ大学に講師として招かれたりするなど、幅広く活躍するようになります。


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ギャラリーしょうざん
備前焼の産地である岡山県伊部で、備前最大のギャラリー。また窯元としての誇りと伝統で、備前焼の展示・販売を行う。

備前焼:ギャラリーしょうざん


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